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髙橋庄作酒造店の創業から今日まで

金波、銀波に輝く稲穂の海原に赤とんぼが飛び交い、会津盆地は今まさに収穫の秋を迎えんとしております。当蔵の五百万石も9月10日前後には刈取りに入る予定です。
当蔵が酒造りを始めたのは明治の初めだろうと思いますが定かではありません。と言いますのは、「戊辰の役(ぼしんのえき)」の大火を含めて再三の火災により殆どの記録が焼失してしまっているからなのです。


余談になりますが、幕末から維新初期の社会の混乱は会津の場合特に著しく、「白虎隊の悲劇」などで知られる-会津戊辰戦争-をはさんでのそれは藩政から民政局への大きな政治支配の交替期でもあり、酒造業の場合も例外でなく、無鑑札醸造者も多く、明治4年には従来の鑑札制が廃止され、新免許による税の取締りが厳しくなされたとあります。

当蔵もこの期に届出をして正式な酒造業者となったと思われます。後年他所から発見された古文書によりますと、文化四年(1807)地首(じがしら)庄助の名が見え、次の庄蔵・庄平父子は共に大の酒好きであったと聞き、明治10年(1877)の酒造人別帳には「髙橋庄平」の名が見えます。花さくらラベルついでその子初代庄作は自作農地から採れる米を元に酒造業者としての基礎を固め、農地も増やし米造りには特に熱を入れたと聞いております。


当代の祖父二代目庄作は酒造りの傍ら山林業に力を入れ、製材業、薪炭、肥料販売と事業を拡げ、更に農地(田)を増やして自農地からの収穫米だけで酒造りを賄うつもりでいたそうです。ところが第2次世界大戦々時下の企業整備により廃業を余儀なくされ、更に戦後の農地改革によりその大半の農地を失い、一転した社会構造の変化に遇った祖父の落胆ぶりは傍にいたたまれぬ程だったと祖母がよく言っておりました。その祖父も翌年昭和28年の個人営業免許復活を待たずに他界しました。


当代の父にあたる三代目庄作は早くから酒造りにかかわり復活陳情には積極的に取り組み、国税庁醸造試験場に学び自ら先頭にたって酒米造りを実践し、本物の酒造りを目指し戦後の造り酒屋としての地固めをしました。しかし時代は皆様ご存知の通り三増全盛の量産体制へと移行、大手と中小蔵の差はどんどんひらき、更に今日の様な飽食の時代に至ってはその量も年々減る一方で消費者は「量より質」を求めてきております。会津娘ラベルそんな風潮の中、昭和60年に当代庄作(四代目)を継いで、下落一方のそれまでの酒造りからの方向転換を決意し、不安ながらも三増全廃を実行し、創業時の純米酒中心へと切換えました。当然造りも半減となりました。 ちょうどこの頃マチダヤ木村寿成様、酒仙の会前会長の桑原様に巡り会えた事で、当蔵の目指す方向が決定的なものとなりました。その後も何かと適切な助言、教示をいただきこのうえない励みとなっております。


以上、蔵元紹介の場を与えていただいたことに感謝し、この折にと思い当蔵の創業前後から今日までを、時代の流れに沿ってまとめてみました。ありがとうございました。
最後に、皆様のご期待に沿える様、愚息共々努力してまいりますのでよろしくご指導お願い致しますとともに皆様のご健勝をお祈り申し上げます。

2000年9月
店主:四代髙橋庄作

以上、『酒仙の会』会報への原稿から要約抜粋しました。

前列中央左側 二代目庄作、同右から四人目 三代目庄作、前列左端 四代目庄作。  
(昭和25年冬)