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土産土法

炊き立ての白いご飯を噛みしめたとき、田んぼ一面に実った稲を見たとき、胸に広がる何ともいえない満たされた気持ち……。
「会津娘」を味わったとき、同じような感慨を覚えるのは、私だけではないだろう。「会津娘」は個性の際立つ酒ではない。華やかな香りはなく、いま流行の甘酸っぱい味でもない。一口試飲しただけでは、強い印象は残らない。だが、ゆっくり味わううちに、なにか温かいものが、じわりと湧いてきて、心が安らぎ、充足感に包まれるのだ。

日本酒造りの技術は年々進化している。空調が完備されたラボのような空間で、酒米の王様と称賛される兵庫県産の山田錦を取り寄せ、新しく開発された酵母を使って、洗練された美酒が造り出されている。そんな時代にあっても、「会津娘」の蔵元は農作業に勤しみ、寒くなれば白漆喰壁に赤瓦屋根の酒蔵で、自ら収穫した酒米を使って、黙々と酒を醸し続けている。

大戦後の農地改革と、急速な都市化の影響を受け、全国各地の酒蔵の周りから稲田が消えた。「会津娘」醸造元では、先代蔵元である4代目の尽力によって、市街化調整区域に認定され、開発を免れた。酒蔵は会津若松市の中心から近い場所にありながら、周囲には昔話の舞台のような里山の光景が広がっている。



5代目の現蔵元は、酒蔵の目の前の自社田で、1986年から、会津の風土に合う酒米の品種「五百万石」の栽培を始めた。農薬と化学肥料を使わずに育てていたというから先進的だ。また、当時、当たり前に流通していたアルコールを大量に添加して造る酒をいち早く撤廃し、1988年には酒造りの原点でもある純米酒を中心とする路線に切り替えた。翌年には、地元の米と人、手法で造るという“土産土法”の方針を掲げた。いま、田んぼでは、次代の蔵元、髙橋亘さんが汗を流し、酒蔵ではリーダーとして酒を醸している。米と田んぼに対する蔵元の情熱は、代々引き継がれているのだ。



さらに今期から田んぼ別に仕込む純米吟醸シリーズ「穣」に取り組み始めた。区画別に仕込むことは、同じ醸造酒のワインの世界では一般的であり、“土産土法”の自然な進化形だろう。しかし、ワインと日本酒は異なる点もある。ワインは、葡萄に含まれる糖を、酵母という微生物が分解するシンンプルな発酵メカニズムだ。原料は葡萄だけなので、葡萄が育った気候や土壌、水はけ、日当たり、風向きなど、その土地の“テロワール”がワインの味や香りにストレートに投影される。収穫年の違いはもとより、隣合う畑でワインの個性が大きく異なるのも珍しくはない。一方、日本酒の場合は米は酵母が分解できないため、麹菌という微生物の力を借りて米麹を造り、そのあと酵母や大量の仕込み水を加えて、非常に複雑な発酵メカニズムで醸される。米や水の質もさることながら、技術の差が大きく左右するのが、日本酒という酒だ。このように様々な要素が交錯した結果が、酒の個性を決定するため、田んぼごとの微妙な“テロワール”や、収穫年による差を、酒の味として表現するのは、簡単なことではないはずだ。飲み手の私たちは、髙橋家と意欲に溢れる若い蔵人たちによる挑戦の成果を比べ飲みする楽しみができた。確かめるために、都会から脱出して会津へ向かいたい。願わくば、米が育った田んぼの畦道に茣蓙を敷き、ニシンの山椒漬けなんかを肴に、ゆるりと一杯。そんな光景を夢想してしまうのである。

山同敦子 さんどうあつこ
食と酒のジャーナリスト。JSA認定ソムリエ、SSI認定利酒師。東京生まれ、大阪育ち。新聞社を経て出版社に勤務したのち、日本酒蔵と出会って独立。土地に根ざした酒造りをする人々のルポを中心に著作活動を行っている。
『愛と情熱の日本酒~魂をゆさぶる造り酒屋たち』(ダイヤモンド社)、
『極上の酒を生む土と人 大地を醸す』(講談社+α文庫)、
『日本酒ドラマチック』(講談社)ほか多数。